1 愛バを失った。 死んだわけではない。だが死んだも同じだ。 名前はサイレンススズカ。 秋の天皇賞でレース中に粉砕骨折。治療には時間がかかり、レース復帰は絶望的と言われた。でも俺もスズカも諦めなかった。 治療とリハビリを繰り返し、きっとまたターフに立てるようにすると頑張った。 だけど、何とか走ってもよいと許可が出た時に本当の絶望に気がついた。 ターフを走るスズカ。ちゃんと走れている。フォームも問題なかった ただ、速度が出ていなかった。何度走っても人間と同じ速度でしか走れなくなっていたのだ。 すわPTSDか肉体の異常かとアチラコチラを走り回った結果、わかったのは、ウマソウルの喪失。 アグネスタキオン曰く、レース中に重大な怪我を追ったウマ娘に見られる現象らしい。 テンポイント、サクラスターオー、ライスシャワー、ホクトベガ……トレーナーとして聞いたことのある名バもそうなったらしい。 『ウマソウルについては未だ何もわかっていないに等しい。けれど私なりの解釈を述べよう。――本来は怪我でウマ娘は本当に死んでいるところだったのかもしれない。だけどウマ娘には魂が2つ有る。本来の物と、ウマソウル。ウマソウルが身代わりとなって助けれてくれた。そう考えている。科学者らしくないかい? 失敬だねぇ、私はこう見えても結構ロマンチストなのさ』 アグネスタキオンの推論はともかく、もうスズカは走る事ができないということだけはわかった。 トレセン学園だって鬼ではない。不慮の事故ということであれば在籍を許されるし、卒業すれば相当の資格だってくれる。 それでもスズカは学園を去った。走ることが生き甲斐であった彼女にとって、他のウマ娘が走る姿を見るのは辛いものだったのだろう。 私には使いみちがわかりませんから、そう言ってレースの賞金を自分に託していたスズカ。その口座の通帳を渡した時、例えそういう意図でなかったとしても、手切金を渡したような感覚に襲われた。 スズカは困ったように少し悩んで受け取ると、お世話になりましたと深々と頭を下げ、学園を去っていった。 あれから半年。新しい担当バを見つけるほど割り切れもせず、酒に逃げることもできず、動く死体だと揶揄されながら過ごす日々。 サイレンススズカという太陽に脳を灼かれてしまったのかもしれない。 このままトレーナーも辞めようか、そう考えていた自分の元に学園からの通知が届く。 クビの通告かと思い開いてみると、選抜レースの開催の案内。 そしてそこで担当バを見つけるようにとの理事長指示だった。見つけられなければクビとはどこにも書いていなかった。 行く必要はない。スズカを超えるウマ娘なんて見つかるはずもない。そんな考えだったが……。 ――選抜レースに行くことにした。担当バを見つけるつもりは毛頭なかった。見つからなかったことを理由にトレーナーを辞める、そんな後ろ向きの理由だ。 会場は相変わらず人でごった返していた。 本格化を迎えていない生徒、将来のライバルを見定めるつもりのウマ娘、マスコミ、そしてトレーナー陣。 ある意味トレセン学園にとって最重要イベントとも言える。 そんな喧騒を余所にトレーナー席の隅で選抜レースを眺める。 見どころのありそうな馬は勿論居た。マンハッタンカフェ、ジャングルポケット、タイムパラドックス。 けど、どれも足りない。サイレンススズカと比べるとどうしても見劣りしてしまう。 いや何を真面目に見ているんだ。辞めるつもりなら座っているだけでいいはずなんだ。これがトレーナの血というものなんだろか。 それからはレースを眺めているだけにした。ともすればサイレンススズカとの出会いが脳裏をよぎるが頭を振って追い出した。未練だぞ、くそ。 そうして迎えた選抜レース最終日。 最後のレースで珍しいものを見た。本格化の来たウマ娘に混じって明らかにベテランのウマ娘が混じっていたのだ。 黒鹿毛で小さなそのウマ娘は明らかにやる気がなかった。周囲のウマ娘を睨みつけ威嚇し、嫌々レースに出ていますよというのがありありと見て取れた。 「あれはトレーナーとやらかしたか……」 ウマ娘の態度からわかる気性難。そういうウマ娘がトレーナーと折り合いがつかずに契約解消。再び選抜レースに出てくるということは稀にだが有ることだった。 「どこかで見たような気がするが思い出せないな……」 とはいえ手元のタブレットでいちいち調べる気も起きなかったのでレースを見ることにした。 レースはその黒いウマ娘の圧勝だった。さすがにデビュー済みが新バに負けるようなことはないか。だが1位で駆け抜けた後やっちまったというような顔をしていたのが印象的だった。 そしてトレーナー達がウマ娘達にこぞって声をかけに行く。最終日の最後までいるようなトレーナーは大体後がない。着順関係なく声をかけにいく。 だが一位を取ったはずのその馬には誰も声をかけに行かなかった。 だがそれだけ。こちらは帰るとしよう。辞職届を書かないとな。 「おい」 掛けられた声に振り向けば、例の黒いウマ娘がいた。 「なんでスカウトしねえんだテメエ」 喧嘩腰の口調。勿論買う理由はない。 「有能なウマ娘がいなかっただけだ」 「嘘つくんじゃねぇよ。選抜レース最終日、才能があろうがなかろうが担当バが欲しいはずだろ。担当バの居ないトレーナーなんざカスだからな」 「――そうだな。俺はカスのトレーナーだよ。それでいい」 背を向けて一歩踏み出す前に襟首を捕まれ、地面に引きずり倒された。 「すっかりさっぱり死んだ眼をしてやがんな。まぁそういうのが俺には丁度いいってやつか。契約しようぜ、な?」 「な、な……。ま、ぐはっ!」 胸に振り下ろされた足で息が止まる。 「別にトレーナーしなくていいからよぉ。トレーナーがいるっていう建前だけ欲しいんだけなんだよ〜。俺は好きにやる。お前も好きにやっていいからよ」 そういって持っていたタブレットを取り上げるとささっと操作してして終わらせてしまった。 「ほい完了。んじゃま仲良くやろうぜ、トレちゃんよぉ」 差し出された手に不承不承捕まれば、思い切り握られて痛みに声が出ない。 なんてウマ娘だ。こんなのがトレセンに居ただなんて。 「自己紹介をしてなかったな。キンイロリョテイだ。もう忘れんじゃねーぞ」 2 次の日、トレーナー室にやってきたキンイロリョテイがやったのは室内に飾られていたトロフィーやレイをボストンバッグに叩き込む事だった。 「何をするんだ、キンイロリョテイ!」 「ああ? こんなのもう要らねぇだろ。前の担当バのトロフィーやらレイやら女々しくいつまでも飾ってんじゃねぇよ」 トロフィーだけでは飽き足らず本棚のレース資料まで放り込んでいく。 「やめろ、それは今まで集めた貴重なウマ娘の資ry……がっ、ガハッ」 止めようとしたがウマ娘の膂力に人間一人が叶うわけもない。腹に一発食らって悶絶する。 「だから要らねぇって。ほとんどのウマ娘は引退したかドリームトロフィー行っちまったよ。もう何の役にも立たねえって」 言われてみればその通り。ウマ娘の世代交代は早い。スズカと一緒に走ったウマ娘なんてもう残っても居ないだろう。 それでもと声を出そうとしても腹の痛みが出させてくれない。 「好きにするって言ったろう? トレちゃんも好きにしていいぞ。まぁ普通の人間にウマ娘は止められるわけねぇけどな」 蹲る俺を余所にキンイロリョテイはスズカが置いていった私物も残らずバッグに放り込んでいく。だがその手がピタリと止まった。 手に取ろうとしていたのは第39回宝塚記念の優勝レイ。 一瞬、その顔に悔しさが滲んだような気がしたが、次の瞬間にはレイをバッグに放り込むキンイロリョテイへの怒りで忘れてしまった。 数十分後。 「さてトレちゃんよぉ。トレーナー室を掃除してやったウマ娘に感謝の言葉は?」 「――出ていけ」 「あーん? 聞こえねえなぁ」 「出ていけと言ったんだ!!」 こちらの怒りもどこ吹く風か。リョテイは肩をすくめると袋を持ち上げて部屋を出ていこうとする。 その足が扉の前で止まった。 「そうそう、次のレースは目黒記念だから出走登録宜しくなぁ」 そう言い残してリョテイは部屋を出ていった。 「くそっ!!」 机を叩きつける音が広くなったトレーナー室に虚しく響く。 「何が目黒記念だ。スズカとの思い出を、絆を、全部捨てやがって……!!」 今すぐにでも契約解除してやろうかとも思ったが、同期のトレーナーやたづなさんの喜んでくれた顔を思い出せば、それも出来なかった。 辞めようとしていたはずであるのに、未練はないはずだったのに。 見守ってくれていた同期やたづなさんへの感謝と同時に、キンイロリョテイへの怒りが胸を占める。 一体何だと言うんだあのウマ娘は。出走登録などしたくもなかったがトレーナーである以上やらねばならない。 不承不承ながらパソコンを立ち上げる。 「好きにしろ、と言ったな……」 建前としてトレーナーが必要なだけとも言った。なら何をやればキンイロリョテイは嫌がるか。 思いついた俺は学園の資料室へ向かった。 「んだよ、これぇ」 翌日、トレーナー室に顔を出したキンイロリョテイに出走登録の控えと分厚い紙の束を渡した。 「――トレーニングメニューじゃねえか!!」 学園の資料から得たキンイロリョテイのデータを基に組み上げたトレーニングメニューだった。 普段の日常トレーニングだけではない。トレーニング外での行動や食事内容制限にまで言及が及んでいる。 「好きにするから好きにしろって言ったのはお前だよな。だから、俺は俺の好きなようにした」 その物言いに今度はキンイロリョテイが言葉に詰まる。 「意趣返しのつもりかよ、クソが」 「勿論別にやらなくてもいいぞ。お前はお前の好きなようにやるんだからな。だが、もしメニューをこなす時は呼んでくれ。手伝いくらいはしよう。暇だからな」 キンイロリョテイは紙の束を持つと真っ二つにしてバラ撒いた。まぁそうするだろうな。 フンと鼻を鳴らした後、トレーナー室を出ようとする。 「そうだ、宝塚記念のレイなら掛けておいてもいいぞ。スズカの影を踏んだ記念なんだろ?」 その後姿に本命を叩き込む。キンイロリョテイの資料を探して思い出したがあの宝塚記念はスズカがギリギリまで追い詰められたレース。そして、キンイロリョテイには後少しで勝てたレース。 「――!!」 ウマ娘の本気を叩きつけられ、その日からトレーナー室の扉はスイングドアになった。 3 目黒記念当日。 東京競馬場のウマ娘控室はキンイロリョテイの怒気で溢れかえっていた。 トレーナーが来ないのはいい。体調不良だのメールが来ていたがどうせ仮病であろうし、来ないことは想定済み。 「これが本命ってことかよ、ちくしょうが!!」 蹴り上げたカバンが壁にぶち当たって落ちる。開いたカバンから出てくるのは黒字に金色のラインの入った服。 キンイロリョテイの勝負服だ。 「目黒記念はGUだぞ……っ!」 ウマ娘が勝負服を着てレースを走るのは何の問題もない。だが暗黙の了解か、勝負服を着るのはGTレースである場合が多い。 勿論GUのレースでも着てはいけないわけではないが、その場合よっぽど気合が入っているか、どうしても勝ちたいという意欲の表れと映る。 まさか他のウマ娘に予備の体操服を貸してくれと頼みにいけるわけもなく、体操着忘れの過怠金など払いたくもない。 館内放送がパドックの時間を呼びかける。悩んでいる暇も選択肢もなかった。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 『注目の一番人気、キンイロリョテイ』 『おや、今日は勝負服を着用していますね。気合が違いますよ』 『GUとはいえ勝負服を着用しての出走。トレーナーが変わった事と関係があるのでしょうか』 『ありえますね。よほど相性のいいトレーナーと巡り合ったのかもしれません』 『キンイロリョテイは2年以上勝利がなく、重賞勝利もありません。それだけに今回は特別ということなのでしょう』   何もかもがイラつく。GUに勝負服で出て浮いている自分も、こちらを遠巻きに見ている連中も、的外れな実況も、この降りしきる雨も。 ぶっ殺す。帰ったら絶対にぶっ殺す。 頭の中はどうやってあのクソトレーナーをぶっ殺してやろうかと考えるので一杯。 パドックも地下バ道も話しかけたら殺すと言わんばかりに歩く。トレーナーが同行していないのがなんだってんだ。 気がつけばゲート。 さすがに少しは冷静になる。怒りで掛かって最下位は流石に不味い。 深呼吸して構える。大丈夫、いつも通りだ。 『すんなりとゲートに収まって、係員が離れます。――スタートしました!』 深呼吸が終わればゲートが開いた。 いつもどおり中団をキープして最後にちょっと走って4着5着狙いそれでいい。 先行争いが終わってスローダッシュとヒートステルスが前に出る。なんだ、何をビビってんだあいつらは。 向こう正面で中団の位置。いつもなら問題ない位置だ。少し抜かせば4着5着が狙える。 だけど――クソッ! 今日に限って周りの連中を鬱陶しく感じる。俺の近くを走るな、前を塞ぐな。 全部撫で斬りにしたい衝動を抑えて走る。周りのウマ娘はビビるし、先頭の逃げはどんどん距離を離す。 逃げたいなら逃げろよ、垂れてきたところを撫で斬りにしてやるからよ。 第三コーナーを回って周囲のウマ娘が動き出す。ビビるが下がらない根性だけは認めてやるけどよぉ〜。 どいつも、こいつも、俺の、「邪魔をするんじゃねえええええええ!!!」 最終コーナー回ったところで完全にキレた。怒りが黒い炎となって全身から噴き出す。雨は触れる側から蒸発して消えていく。重バ場を足と蹄鉄で弾き飛ばすつもりで踏み出す。 「どぉけぇぇぇぇええええええ!!!」 『中からキンイロリョテイ! 中からキンイロリョテイ! さぁ200を通過! 先頭はキンイロリョテイ!』 視界に誰かがいると苛つく。苛つく連中を視界に入らないようにすれば、前には誰もいなくなっていた。 『先頭はっキンイロリョテイ、キンイロリョテイ!! 初重賞ゴールインッ!! やりましたキンイロリョテイ! 二年八ヶ月ぶりの勝利が、嬉しい重賞初勝利!』 我に返ればゴールを一着で駆け抜けていた。ウマ娘の本能が、魂が喝采を上げる。これこそが見たかった風景、望んでいたものだと叫ぶ。 脳内での魂からの衝動に、怒りは急速に収まっていく。まるで激情すら走りの糧にしたかのように。 「くそっ、やっちまった……」 ずっと取らなかった1位を取ってしまった。 これをトレちゃんが狙ってたというのであれば脱帽するしかないが恐らくそうじゃない。 だから、これは怒りに我を忘れた俺が悪い。GTじゃないだけマシと思おう。 義務的にウイニングランを終えて地下バ道へ戻ってきたところで厄介なことを思い出した。 「ライブの、センターの練習なんてしてねえぞ……!」 3 目黒記念で勝利したからといって俺とキンイロリョテイの関係が何か変わることはなかった。 次はGTだと出走した宝塚記念は5着。目黒の脚を使えばオペラオーを倒せるとは言わないが掲示板くらいには入ると思っていたんだが。 キンイロリョテイが手を抜いているのは明らかだったが理由はわからない。 聞いて教えてもらえるとも思っていなかったが。 なんとか練習の時だけでもと手をつくしたが、その度にボディにいいのを食らうだけに終わった。 そうして春のGT戦線は終了。夏の強化合宿に入った。 合宿でのキンイロリョテイは比較的おとなしかった。周囲の目があるせいだろう。トレーニングも一通り真面目に行っている。 だが、それに気を良くして少し増量すると砂浜に埋められた。 トレーニングが早く終わったので追加トレーニングしようとすると海に放り込まれた。 ある時は遠泳でキンイロリョテイが溺れているというので助けに行けば、それは演技で逆に沈められたあげく、トレーナーが溺れたということで救助したという美談にすり替わっている事すらあった。 そんな合宿も終わる頃にはいい加減自分も人間としての耐久力が上がってきたなと実感しかけていた。合宿で鍛えられたのは俺かもしれない。 「トレちゃんよぉ。近くで夏祭りやってるらしくてよー。ちょっとセイウンスカイとニシノフラワーの間に挟まってくるから小遣いくれよぉ」 なんてことを。 あの二人が仲良く笑顔で連れたって出かけていくのを俺は見ていた。そんなことをさせるわけにはいかない。 「わかった、財布を取ってくる」 と時間を稼いで、地元の自治体のご老人方が作ったであろう手書きのチラシの切れ端、ジュース引換券を集めて渡したところ、夜の海に放り込まれた。 流石にヤバいと思ったのかすぐにキンイロリョテイに救助された。 命の危機と引き換えに企みは阻止出来たようだ。 その後手間かけさせんなと逆ギレしたキンイロリョテイに屋台を総ざらいさせられたが、あの二人の笑顔を守れたのなら軽いものだ。 そうして合宿も終わり、なんとかキンイロリョテイの扱い方もわかって来たかなという頃、たづなさんに呼び出された。 キンイロリョテイの事かと身構える。なにせ秋戦線も成績は振るわない。オールカマー五着、天皇賞七着。 トゥインクルシリーズも5年目。引退を仄めかされても仕方がない。 身構えて出頭すれば、内容はまったく別だった。 「ドバイ、ですか……」 「まだ本決まりではありませんが、スタンドアップのドバイ挑戦の併せウマとして一緒に行ってもらえないかと……」 「ふーむ……」 スタンドアップは確かキンイロリョテイと同じような成績だったはず。ドバイに挑戦出来るとは思えなかったが、トレーナー側の希望という。色々あるものだ。 「本人に聞くだけ聞いては見ますが期待はしないでください」 なにせあの性格だ。海外なんて行きたがらないだろう。とはいえ聞かないわけにもいかない。 重い足取りでトレーナ室のドアを開ければ、眼前には信じられない光景が広がっていた。 床に倒れ蹲るキンイロリョテイ。それを見下ろす黒いスーツで黒鹿毛の華奢なウマ娘。 そのウマ娘が振り返る。黒一色のスーツの中でネクタイだけが真っ白い。そしてその視線、その瞳には人を殺してきたかのような圧。 「おまえか。うちの娘をろくに勝たせることすら出来ない無能は」 次の瞬間には腹部に鋭い一撃が入っていた。キンイロリョテイとは比べ物にならない一撃。 床に崩れ落ちる。 頭を踏みつけられる。 誰なんだ。学園内でこんな所業が許されるわけがない。床から見上げた姿。スーツに光る襟章はトレセン学園スカウトマンの証。 スカウトがなんでこんなところに。 いやさっき何か言ったな。俺の娘、だと……? 「やめろ、トレちゃんに、手を、出すな……」 辛うじて起き上がったキンイロリョテイだったが、すぐに足を払われて再び床を舐める。 「おまえ、今まで手を抜いて走っていたな? てっきりシルバーコレクター程度の足かと思って諦めていたんだが。俺の目を欺くとはやるじゃないか」 今度はリョテイが踏みつけにされる。やめろと叫びたい。今すぐ止めなければ。だが腹部の痛みで体が動かせない。 「何の気まぐれかわからないが、目黒記念であれだけの脚を見せておいてバレないとでも思ったのか? あの脚があれば今までのシルバーが幾つかはゴールドになっているはず。つまり手を抜いていたってことだ」 「親父……俺は……!」 「いいか、ウマ娘は走るのが本懐だ。本能だ。魂からの衝動だ。走らないウマ娘などウマ娘じゃない。走った結果として目が出ないのはいい。だが手を抜いていたのは許せん」 振り上げられた足がリョテイに命中する前に、精神力を振り絞って体を動かして飛び込んだ。 肩の裏にに衝撃。 「トレちゃん……!!」 今のは骨が砕けたかと思うほどの衝撃に目の前がチカチカする。 「ほう、根性だけはあるようだな。――いいだろう。チャンスをやる。ドバイで勝て」 ドバイ遠征の話をなぜ知っている。考えようにも思考はまとまらない。 「勝てないなら引退、学園も中退だ。望み通り自由にしてやる」 それだけ言い捨てると黒い嵐は去っていった。 圧が消えて安心したのか、それを見て俺は意識を失った。リョテイがなにか叫んでいるが何を言っているのか聞こえな……。 気がつくとソファに寝かされ天井を見上げていた。 起き上がろうとすると腹部が痛み、再び横になる。 「起きたかよ」 顔を動かせばリョテイ。顔に湿布が貼られている。自分の肩や腹部にも処置がされていた。リョテイがしてくれたのか。 「…………」 「…………」 聞きたいことは沢山あった。だが聞いてはいけない事のような気もする。 リョテイも言い出しにくいのか黙って椅子に座っている。 しばらく沈黙が支配して、リョテイがゆっくりと口を開く。 「――あれは俺の母親だよ。サンデーサイレンス。聞いたことくらいあるだろ」 「あれが、か」 その名前を知らぬトレーナーは居ないだろう。 サンデーサイレンス。トレセン学園のトップクラスのスカウトマン。スカウトしてきたウマ娘は数知れず。その中で重賞を勝ち抜ける"当たり"のウマ娘も数知れず。 トップスカウトマンの証、リーディングサイアーを持つ元競走バのウマ娘。 確かスズカも彼女の誘いで学園に来たはずだ。 「小さい頃からあんな感じでよ。走らないとよく殴られたもんだ。あんまりだから一度嫌がらせで親父って呼んだら逆に気に入りやがってな。それ以来ずっと親父呼びだ」 語るリョテイの目はどこか遠くを見ている。 「そんな親父だからトレセン学園には無理やり入らされたようなもんだ。辞めようとしたこともあった。けれど中学生程度の女が一人で生きていけるわけもない。すぐに見つけられて捕まったさ。それで嫌でも理解したんだ。走るしかないってよ」 諦観の混じった溜息。これがあのいつものリョテイと同じとは思えない。 「けど本気で走る気にはなれねえ。親父への反抗心もあったが、ウマ娘の足はガラスの足だ。本気で走ればいつ折れるかわからない。だから本気で走らず、負けないが勝ってもいない順位で落ち着くことにした」 「……」 黙って聞く。口を挟むほど野暮じゃない。 何よりリョテイが走らない理由がわかるのだ。 「親父は走って勝てるウマ娘にしか興味がない。このままシルバーコレクターして引退卒業すりゃ逃げられる。掲示板に入れば多少でも賞金もでる。そう思ってたんだがなぁ」 「どっかのバカが勝たせてしまった、か」 「そうよ。おかげでこの有様だ」 幼少期からのネグレクト。走らなければ否定される環境。それが今までのリョテイだったのか。 トレセンに来るような娘はみんな前向きで走りたい勝ちたいと思っているウマ娘ばかり。そう思っていた。こういう子もいるんだな。 「で、トレちゃんよ。ドバイって?」 「ああ、それはな……」 たづなさんからの要請を説明する。帯同バだと思っていたらとんでもないことになってしまった。 「そっか。――トレちゃん、メニュー頼むわ。ドバイに勝てるやつ」 椅子に保たれて手を顔に当てるリョテイ。その表情は読めない。 「いいのか?」 「いいも悪いもねぇだろ。そもそもトレちゃんだってターゲッティングされてんだぜ。リーディングサイアー持ちのスカウトマンとやらかし経験有りのトレーナー。勝てるんならどうぞ、だ」 「――そりゃ無理だ」 頭でメニューを組み立てる。だがドバイとなるとすぐに組み立てられるようなものでもない。 「んじゃ、頼むぜ。……痛つつッ」 腹を抑えながら部屋を出ようとするリョテイを呼び止めた。 リョテイの走らない理由を知った上で、これは言って置かなければならない。 「リョテイ、今までお前を担当バとまともに思ったことはない。殴って殴り返されての関係だったしな。それを今から担当とトレーナーとか言うつもりもない。でもお前と俺は一蓮托生になった。だから『共犯者』だ。お前の望みを叶えた上で、ドバイにで勝たせてやる」 痛む体を無理やり手を差し出す。リョテイとの間に担当やトレーナーという関係は望むべくもないし似合わない。これは共闘だ。 少し間を置いて、リョテイはその手を握り返してきた。きっちり握りつぶさんばかりの力を込めて。 「いいぜ、ドバイに勝って親父の鼻を明かしてやろうじゃないか」 4 目標は決まった。 となれば他のレースはすべて捨てる。 残すはジャパンカップと有馬だがリョテイなら無難な着順に収まるだろう。 出場するレースも決めた。ドバイシーマクラシック。 GUレースだが帯同バとして行く以上GTは望むべくもない。GUならシーマクラシックが順当と思われた。 サンデーサイレンスはその後はなにも音沙汰がない。無いということは問題ないのだろうと思うことにした。 リョテイは悪態をつきつつも真面目に練習に励んでいる。 それでも目黒のあの脚を見ることはなかった。リョテイ自身も出したくても出せないという。 となると火事場のクソ力的なものなのだろうか。 何にせよメンタル面では手の出しようがない。ネグレクトに端を発する強迫観念。それを解消してやれるほどリョテイと信頼を積み上げているわけでもない。 今は日々のトレーニングを、リョテイ自身を信じるしかなかった。 ジャパンカップ8着。 海外ウマ娘が出走する国際レースということで参考になればと思ったが、誤算だった。 オペラオー、ドトウのいつものワンツーフィニッシュからの海外バであるファンタスティックライト3着。 前二人が強いのは当然だが、ファンタスティックライトの敗因はレース頭から先頭に立ったリョテイのスローペースに巻き込まれたことだ。 レース後、戻ってきたリョテイはしてやったりという顔で控室に戻っていったが、俺は気づいていた。 ファンタスティックライトとそのトレーナー、飛行機事故からも生還したという不死身の男。その二人がこちらを睨んでいた事を。 そこで初めて世界のレベルというものを自覚した。 「あの戦法はもう通用しない」 「通用しただろ!!」 「そもそも勝ったのはオペラオーでリョテイじゃない。ドバイじゃラビットは認められているが、お前がラビットになったら駄目なんだよ」 「じゃあどうやったら負けないですむってんだよ! 今のトレーニングで充分だっていうのかよ!!」 「――レース絶対に勝てるトレーニングなんてない」 それでも今はトレーニングに縋るしか無い。やらないよりはマシだと言い訳して。 有馬が終わり、年が明けての日経新春杯で勝利。 トレーニングの成果が出たということだろうか。無論、これで安心出来るわけではない。 出走バも正式に決まる。ファンタスティックライト参戦。ジャパンカップでのリベンジだろうか。他にもダリアプール、ムタファーウェク、シルヴァノなど錚々たるメンバーが揃っていた。 俺とリョテイのプレッシャーが増したのは言うまでもない。 3月に入るとリョテイのトレーニング量は更に増えた。こちらの提示したメニューを水増ししてまでトレーニングしている。止めろと言っても聞く耳を持たない。 それが様々な不安からくる逃避行動というのはわかっていたし、それを取り除いてやれない自分の無力さに腹が立つ。体を壊さないように見ていてやることしか出来ない。 ドバイに移動してからもそれは止むことはなかった。 「これ以上は危険だ! もう止めろ!」 「うっせえよトレちゃん、やらなきゃ、やらなきゃ負けちまうだろ!」 「体を壊したら本末転倒だ! レースに出走出来なくなる!」 なおも続けようとするリョテイをしがみついてでも止めようとして二人してダートにもつれるように倒れ込んだ。 慌てて起き上がりリョテイを助け起こして気づく違和感。ウマ娘が人にしがみつかれたくらいで倒れるわけがない。それにリョテイが起き上がってこない。 抱えあげればとても軽い。服越しでも骨の当たる感触がある。俺がついていながら……! 「ガリガリじゃないか! よくこんな体で……!!」 人の力でウマ娘を止めれた時点でおかしいのだ。腕の中のリョテイはぐったりしている。慌ててホテルへと連れ戻し、ベッドへ寝かせ点滴を打つ。すぐに寝息が聞こえてきた。 「まったく……」 こんなになるまで追い込まれていたのか、いや一番近くに居たのに気づけなかった俺が悪いのだ。 幸いレースは数日後。トレーニングを止めさせ休息させれば、出走取りやめということにはならないだろう。 「本当は止めるべきなんだろうけどな……」 だが今のリョテイは聞く耳を持たないだろう。いったいどうしたらいいのか。 そんな時机の上のスマホが着信を知らせてきた。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 目が覚めるとホテルの部屋だった。 腕には点滴。吊るしてある袋は空になっている。中身はブドウ糖。トレちゃんか。他にはいねえし。 時刻はとうに深夜を過ぎている。随分と寝ていたもんだ。 ふと気配を感じて窓を見ると、椅子に座っている人影。 「起きたか、リョテイ」 「なんだトレちゃんかよ、ビビらせんな」 トレちゃんはこっちを向かず窓から夜景を見ていた。タバコでも吸ってりゃ様になったろう。 「リョテイ」 「んだよ」 「――俺は降りる」 「は?」 なんだ。何を言ってたんだコイツは? 「おい、それはどういう事だ。まだ戦ってもいねえ。まだ負けてもいねえぞ!!」 「元々トレーナーを辞めようとしてたんだ。そこをお前に捕まって、今日まで来たけどな。リョテイじゃ勝てないってわかったんだ」 「てめえ……!」 点滴の針を乱暴に抜いて勢いよく立ち上がって目が眩む。くそ、体が言うことを聞かねえ。 「未だに『負けない』なんて言ってる時点で無理だよ。中央トレセンのウマ娘ならオープンに出れないような子でもこう言うだろう」 「『勝ちたい』ってな」 「なにが、違うってんだよ……」 「リョテイが追い詰められているのはわかるさ。でも後ろに下がらないだけで前に進もうとしていない。負けないことは勝つことじゃない。負けることを恐れず勝ちに向かって突き進むのがウマ娘だ」 「他のウマ娘と一緒にするんじゃねえ!! 走りたくてトレセンに来た連中と俺を一緒にするな!!」 なんでだ、なんで急にこんな事を言い出してんだよ、コイツはよぉ。 「ああ、そうだな。だからトレセンなんて辞めてしまえばいい。別に辞めたところで殺されるわけじゃない。サンデーサイレンスだって殺しまではしないだろ」 「そういう事じゃ……!」 「ああ、安心しろよ。さすがに俺も責任を感じないわけじゃない。どこか職くらいはリョテイの分も見つけてやるよ」 その言葉を言い終わらないうちに枕を投げつけた。枕すら満足に投げつけることが出来ずに窓に当たって落ちる。 「出走登録を抹消はしない。納得出来ないなら走ってもいい。残り数日は好きに過ごすといい。でもおとなしく静養するのをオススメしておく。荷物も置いておくから好きに使え」 トレちゃんが立ち上がる。やっとこっちを向いたかと思えば似合わないサングラスなんか掛けてやがる。 「――どこ行くんだよ」 「帰るんだよ。無職になるとなれば色々やることがあるからな」 そのまま部屋を出ていこうとする。くそっ、くそっ! くそくそくそくそ!! 「俺達は共犯者じゃなかったのかよ」 一瞬動きを止めたトレちゃんだが、そのまま無言で部屋を出ていった。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 部屋の扉を閉める。 直後、部屋の中から絞り出すかのような獣の咆哮が背中を打った。 逃げるようにホテルのロビーまで移動し、椅子に座って大きく大きく溜息をついた。 「やっちまったなぁ……」 間違いなくトレーナー失格の所業。演技とはいえ非常に心が痛む。 「素晴らしい! 担当バの為にあえて憎まれ役を引き受ける……。トレーナーの鑑です! あ、お疲れ様でした。その様子だと上手く行ったようですね」 缶コーヒーを差し出したのは、今回の首謀者。俺を電話一本で呼び出した主犯。月刊トゥインクルの記者乙名史悦子。 取材ということで呼び出され、根掘り葉掘り聞かれた結果、現状をすべて話してしまっていた。 『だったらもう精神も限界まで追い込みましょう。それで負けたならそれまでですよ』 そうして乙名史女史の甘言に乗り、先程の顛末というわけだ。 「駄目だったらうちの社で雇わせてもらいますよ。月刊トゥインクルじゃなくてトゥイスポの方になると思いますけど」 「しかし、どうしてここまでしてくれるんですか? 記者としての立場を越えているのでは」 「ええ、そうですね。でも今の私はただのリョテイさんファンですから。それにかわいいかわいい姪っ子から頼まれれば仕方ありません」 「姪……?」 そんな話は聞いたことがないが。 「ええ、最近出来たんです。今度連れて取材させてもらいますね」 「それはどうも」 何の慰めにもなりはしない。だが賽は投げられた。都合のいい言い訳ではあるが、後はもうリョテイを信じるしかない。 「ではこれ。新しい宿の鍵です。安宿ですけど我慢してください。くれぐれもリョテイさんとは会わないように」 「ありがとうございます。一応別のトレーナーに声はかけてあるので大丈夫かと」 ここまで来たからには最後まで貫徹しよう。その後は何があっても覚悟はしよう。殴られるくらいなら安いもんだ。 「もう一枚切り札があるんですが、これは当日まで秘密ということで」 いたずらっ子のように笑う乙名史女史は本当に楽しそうである。 「はぁ」 「まぁ楽しみにしておいてください」 レースまであと数日。トレーナーが天に祈ることしかできないとは。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 不思議な感覚だった。 パドックを回り馬道を通って馬場に出るまで意識が飛んでいるような気分だった。 だがスタートに近づくにすれ意識はどんどんはっきりしていく。同時に不安もまたリョテイの中で大きくなっていった。 倒れるまでこなしたトレーニング、メイダン競馬場のコースは頭に入れた、芝の状態も見た。戦う相手の情報も見た。 これまでで一番真面目にレースに向き合ったかもしれない。 それでもなお不安は消えるどころか、押し潰さんばかりに膨れ上がってくる。 もう逃げることは出来ない。対するは世界の歴戦バ達。 (やるしかねえ、やるしかねえんだ。相手なんか関係ねえ。全力を出すんだ。そうしなきゃ俺は……!) 誰かに縋りたかった。それがあのイマイチ頼りないトレーナーであったとしても、支えてくれるならそれでも。 だがそれももういない。自分の二本の足だけで支えていかねばならないのだ。 出走バがゲートに収まっていく。リョテイもまたゲートへと入る。 もう五年近く走っているのだ。ゲートに収まれば自然と体が構えを取る。 『スタートしました! いいスタートだキンイロリョテイ! 上手く好位集団につけました!』 正面スタンドを過ぎて七、八番手。内側の位置。悪くない。 だが先頭集団はやはり海外勢が抑えている。誰も彼も一流か超一流。レース序盤とはいえその読み合いは国内の比ではない。 (ちくしょう。まだ第一コーナー過ぎた程度だってのについていくのが精一杯じゃねえか!) 自分の肉体を追い込み続けたトレーニングの不調からはまだ回復しきっていなかった。そこへ不安や緊張感が入り混じり、普段よりもずっと疲れやすくなっていた。 それでもなんとか中団位置をキープする。 『さぁバックストレッチを回ってキンイロリョテイは中団後方九番手! 先頭逃げているのはエンドレスホール、それをダリアプールが懸命に追いすがる!』 バックストレッチを抜ければ後はもう最終コーナー。 (もう最終コーナー抜けてからの直線に賭けるしかねぇ。もうちょっと、もうちょっとだけ体力があれば……!) 正直なところ、最終直線で抜け出る脚を残せるかどうかもわからない。だからといって諦める事もできない。 (これが、これが勝ちにいく走りってやつなのかよ、トレちゃん!) 『さぁ最終コーナー回ってまだキンイロリョテイは中団位置。先頭はダリアプール……いやファンタスティックライト、ファンタスティックライトが上がってきた!!』 ファンタスティックライトが上がった際に前が開く。 その一瞬、目に入る観客席に信じられないものを見た。 忘れようはずもない。夢にまで見た長い栗毛の髪。緑のメンコ。その背中を追いかけて影を踏むのがやっとだった女。 サイレンススズカが不安げにこちらを見ている。 ふざけるなよ。誰だ。誰がアイツをここに連れてきたんだ。トレちゃんか。それとも親父か。 いや、どうでもいい。 アイツが、スズカが見ているところで、 「俺の前を走るんじゃねええええ!!!」 『ファンタスティックライトだ! ファンタスティックライトが抜け出してきた。いやその後方から……キンイロリョテイだ! キンイロリョテイ、凄まじい気迫で抜けてきた!!』 驚きが、怒りが、何もかもを吹き飛ばした。 アイツの見ている前で、ダセえ真似が出来るわけがない。 『どんどん前に迫っていくぞキンイロリョテイ! ファンタスティックライトに追いすがる! ファンタスティックライトも負けじと駆ける。だが、だが、キンイロリョテイが迫っていく迫っていく!』 限界まで追い込んだ体に力なんて残っていない。今燃やしているのは魂だ、激情だ。 黒炎を吹き出してターフを駆ける。ファンタスティックライトなど目に入っていない。 いや、見えている。だが見えているのは別のウマだ。 あの秋に決着をつけられなかった相手、異次元の逃亡者。 幻覚かどうかなんてどうでもよかった。あの時つけられなかった決着が着けられるならば。 「お前には、絶対に、勝ってやるからな!!」 『キンイロリョテイ! ファンタスティックライト! ファンタスティックライト!キンイロリョテイ! ファンタスティックライト! キンイロリョテイ! ニ頭並んでゴールイン!!』 頭が真っ白だった。 スタート前のそれとは違う。全て燃やし尽くしたがゆえの白。 客席を見たがそこにスズカは居なかった。幻覚だったのか、それとも。 掲示板に順位はまだ出ていない。写真判定だ。 だがもう勝敗はどうでもよかった。全てを出し尽くしてすっきりしていた。 今、勝敗はどうでもよかった。 深呼吸がとても美味い。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 掲示板に表示された順位は2位ファンタスティックライト、1位キンイロリョテイ。 言葉にならなかった。 人は喜びがすぎると頭が真っ白になると気付かされたのは、乙名史女史に声をかけられた時だった。 「素晴らしい!! 史上三頭目の日本のウマ娘の海外重賞制覇! おめでとうございます!!」 「俺は何もしていないですけどね」 「そんな事はありません! 心を鬼にして担当バへの追い込み。何よりも日頃のトレーニングの成果でしょう!」 褒め過ぎだ。俺はそんな大層なことはしちゃいない。むしろ最低の――。 「そういえば切り札と言っていたのは?」 「ああ、あれは横から取られちゃいまして。いずれ改めてご紹介させてもらいます。それより良いんですか? 担当ウマ娘を迎えにいかなくて」 「そういえばそうですね。おとなしく殴られに行ってきます」 「素晴らしい! 身も心も担当に投げ出す心意気! やはり並のトレーナーじゃありません!」 しかし、あの最後の末脚。あの直前に何かあったのだろうか。突然リョテイの様子が変わった気がしたのだが……。 考えていても仕方ない。今はリョテイを迎えに行くとしよう。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 モニターに順位が表示されたのを見て、サイレンススズカはふうと安心して溜息をついた。 ニ頭並んでの同時ゴール。どちらが勝ったかは全くわからなかった。 「よし、それじゃあ帰るぞ」 彼女をここまで連れてきた人物。サンデーサイレンスが手を引っ張っていく。 二人はすでに競馬場の入り口に居た。 「待ってください。せめてリョテイに一言くらい」 「駄目だ。そこまで甘やかすつもりはない」 サイレンススズカとサンデーサイレンスは知らない中ではない。故郷でただただ走っていたスズカをトレセン学園にスカウトしたのがサンデーサイレンスだった。 入学してからは音沙汰なく、スカウトはそういうものだと思っていたのだが、乙名史記者からドバイ行きを打診されたところにサンデーサイレンスがやってきて、無理やり連れてきたのだった。 サンデーサイレンスに引っ張られて競馬場を後にする。 ひと目会いたかったが会えば色々話し込んでしまうに違いないし、サンデーサイレンスの強引なところはスズカですら知っているところだった。 それに今の自分の立場であればすぐにでも会う機会が巡ってくるはずだ。胸に下げたマスコミ用の入場許可証がその理由。 「おめでとう、リョテイ」 最後にもう一度だけ競馬場へと振り返り呟いた。 5 『月刊トゥインクル』インタビュー記事より抜粋〜 Q.担当のキンイロリョテイさんと見事ドバイシーマクラシックを制したわけですが、二人はあまり仲が良くないともお聞きしていますが? 最近はそうでもないかなと思い始めてますけど、当初は本当に仲が悪かったですね。 こちらから手を上げるようなことは勿論していないのですが、意図的にきついトレーニングにしたりとかはしていました。その度にリョテイに殴られていました。 ――暴力を振るわれていたと? 本気じゃないですよ、本気だったら死んでますから。でもあのリョテイとバチバチにやりあった時期があったからトレーナーを続けてられていたんじゃないかと思います。 ――というと? あの頃は前担当のサイレンススズカが居なくなって半ば自棄になっていたんです。 リョテイとやり合うことで、子供じみた反抗心であっても、心の燃料にはなったっていうか、愛バを失った悲しみから目を逸らせることが出来ていた気がします。そういう点でもリョテイには感謝しています。当時はなかなかわかりませんでしたけどね。 ――今は信頼関係が築けている? 少なくとも自分は信頼しています。リョテイからは……どうでしょう。 ドバイの件もあるので警戒されているかもしれません。 そうだとしても自業自得なので文句は言えませんね。宥めてお願いするだけです。 ――昨日の京都大賞典におけるキンイロリョテイさんの斜行についてなにかコメントを あれは全面的に自分の責任です。斜行癖があるのはわかっていたのに矯正しなかったのは自分ですから。 巻き込んでしまったウマ娘さんには謝っても謝りきれません。 今は矯正具も着けさせましたし、大丈夫……だと思います。もしかしたら大丈夫じゃないかもしれませんが、トレーナーである自分が信じてやらないと。 ――実際のところリョテイさんをどう思っていますか? 多分、どのトレーナーに聞いても同じだと思います。かけがえのない担当バ。 トレーナーが担当バに抱く感情って言葉に出来ないんですよ。担当バと結ばれるトレーナーもいますけど、それは例外で……。 でも一言でいうなら愛になるんでしょうね。でも恋愛でもないし、親愛でもない。ぴったりな言葉がないんですよ。 なので、感情を表す言葉ではないですけど、愛バというのが一番しっくり来ますね。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 トレセン学園の取材用応接室。そこに二人の人物がいた。 キンイロリョテイとサイレンススズカ。 サイレンススズカは制服でなく、動きやすそうなグリーンのパンツスーツ姿だった。 「それじゃリョテイ、インタビュー始めるわね」 「そうじゃねえだろ……」 「まず最初の質問だけど――」 「そうじゃねえよ!! なんで記者なんてやってんだ! いや学園をやめてそれから……!」 様々な思いが混じり合って段々と声が小さくなっていく。色々と聞きたいことはあったが、いざとなると言葉にできない。 ふぅと軽い溜息を付くスズカ。 「学園を止めて家に戻って、しばらくは塞ぎ込んでいたわ。でもある時乙名史さんが訪ねてきて記者見習いしてみないかって。人生はまだ走れるからって」 一息つく。 「そうして乙名史さんについて回ったわ。最初は他の人が走るのを見るのが苦痛だった。どうして私は走れなくなったのに走っているのって。でもウマ娘やトレーナーさんの話を聞いているうちになんとなくわかってきたの。託すっていうのも悪くないかなって」 「……」 「当たり前だけど、全てのウマ娘にドラマがあるわ。GTを幾つも取ってても、オープン戦ですら勝てなくても、そのウマ娘に色々なものをファンやトレーナーは託しているんだなって」 「そんなの……」 「私はその期待に応えられなかったけど、その悔しさも他の誰かに託すの。私が見れなかった景色を他の誰かなら見てくれるかもしれないって。誰に託すかは色々。親子だから、同じチームだから、友人だから、速いから、強いから。皆がみんなそこまで考えているわけじゃないけど」 「そうじゃねえ!!」 言葉は最後まで続けられず、立ち上がったリョテイに襟首を掴まれる。 「サイレンススズカはそうじゃないだろ。いつだって一番前で、俺の前で、走っていなきゃよぉ……」 「あなたも私に託していたのね。走りたいけど走りたくないという矛盾を私に……。けど私は走れなくなった。だから今度は私がリョテイに託すの。リョテイならあの景色を見れると信じてるから」 「なんでだよ、なんで俺なんだよ……。俺より速いウマ娘なんて幾らでもいるだろ。俺にそんな強さなんてねぇよぉ」 ずるずるとスズカの足元に崩れるリョテイ。 「リョテイの事情は知っているけど、リョテイの速さも知ってるもの。そんなリョテイについていてくれるのが私のトレーナーだった人だから」 そうとも。私を先頭の先の景色が見えるかもしれないところまで連れて行ってくれたのは間違いなくあのトレーナーだ。 本人に言えば謙遜するだろうけど。 「なんて言ったけど別に答える義務はないわ。こっちが勝手に期待しているだけ。走りたくないなら走らなくていいのよ。もうサンデーサイレンスさんからは自由になったんでしょ?」 「――俺はずっと後悔してたんだよ。おまえが倒れた時、レースなんてほっぽりだして駆け寄るべきじゃなかったのかって。あの時、レース前に勝負なんて言わなければおまえの脚は!」 それはリョテイがずっと引っかかっていたこと。あのレースを走り、あの場面を見たからこその後悔。 「いいのよ、きっとあそこがウマ娘として私の天寿。だからリョテイが気にすることはないの。それともリョテイはウマ娘じゃない私は嫌い?」 「そんなことねえょ」 「だったらいいじゃない。走れなくなっても、私はあなたの親友よ」 膝をつくリョテイを助け起こす。これほどリョテイにとって存在が大きかったとはちょっと予想外で嬉しく思う。 「悪い……。ずっと、引っ掛かってて」 「――いいの。それよりも驚いたわ。リョテイがまさかあんな積極的になるなんて」 「? なんのことだよ」 「トレーナーさん。リョテイが憧れてたのは知ってたけどまさか担当になるなんて思わなかったわ」 「――な!? な、な」 「で、ちょっとは進展した? ……あの様子じゃだめかしら」 「な、なん、なん、で」 顔を真っ赤にして口が開いたり閉じたり。狼狽えるリョテイというのも珍しい。 「だって私もトレーナーさんのこと好きだったもの。同じ目で見ていれば気付くわ。素直になれずに殴ってばかりだと気持ち、伝わらないわよ」 「う、う、ううるせえ」 「速くしないと私が持って行っちゃうわよ。トレーナーさんも私に未練があるみたいだし、トレーナーと生徒、担当バより、トレーナーと記者のほうが断然有利だし」 「あれはもう俺のだぞ!!」 「それをトレーナーさんの前で言える?」 「うっ」 「それじゃあ頑張らないとね。でも、よかったリョテイやトレーナーさんが元気で。乙名史さんに頼んで合わせてもらって良かった」 「インタビューは口実だったってのか」 「それは本当だけど、リョテイと話したかったっていうのも本当。あ、乙名史鈴鹿って名前もペンネームだから。サイレンススズカとはもう名乗れないし」 「なんか、変わったなスズカ」 「そうね。これが大人になるってことなのかもしれないわ。さ、ちゃんとインタビューをはじめましょう」 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 トレーナー室には重苦しくは無いものの沈黙が降りていた。 リョテイもトレーナーもサイレンススズカと話して思うことがあったゆえの沈黙である。 どちらともサイレンススズカには思うところがあったがゆえに。 「トレちゃんは何を言われたんだよ」 リョテイが口火を切った。 「感謝と激励かな。改めて感謝されたのと、今後のトレーナー業を応援してると」 それだけではなく当時は好きだったとまで言われたがそれは黙っておくべきことだろう。 「リョテイは?」 「別に、なにも」 顔を背けるリョテイに、何かあっただろうと察するものの追求するのはやめておく。なにか藪蛇になりそうな予感がしたのだ。 溜息をついて吐き出す。 「結局の所、俺はまだまだ新人だったんだなって思い知らされたよ」 「んだよ急に」 「これからトレーナーをしていくなら、担当ウマ娘との別れなんてごまんとある。勝てないから、もう年だから、いろんな理由で別れていく。それが急に来たというだけだったんだ」 勝って引退、ドリームトロフィーへ移籍もそうだ。人生とは別れの連続である。 「本当ならずっと担当していたいよ、スズカも、リョテイも」 すっと口にすることが出来た。リョテイへのわだかまりはもう無い。手はかかるが大事な担当バだ。 「……お、おう」 俯くリョテイ。その顔がうっすらと朱に染まっているの事に天井を見上げて喋るトレーナーは気づかない。 トレーナーもまたリョテイを見ながらというのは恥ずかしかったのかもしれない。 「けどそれは無理だ。ドリームトロフィーにいったとしてもいつかは走るのを辞める時がくる。ずっと面倒見てやるなんて出来やしない」 だからこそ今を大事にしたい。一緒に居られる時間は有限なのだから。 「だからリョテイ、おまえをもう少し担当させてくれ。おまえが走りたくないのはわかってる。でも俺はおまえと走りたい。一緒に勝っていきたいんだ!」 意を決して言う。トレーナーとしての業というべきだろうか。これというウマ娘を見ると構ってしまう。走って栄光を掴ませてやりたくなる。 それが傲慢と言われても、愛だと言われても否定できない。ビジネスライクで人の人生を預かれるものか。 「トレちゃんよぉ。本気でいってんのか?」 「ああ、G1だけじゃない。グランドスラムだって取れる。取らせてやる。」 「あはははははっ、いうじゃねえか」 笑うリョテイだが嘲る感じはない。すぐに笑うのを止め、トレーナーをまっすぐ見つめる 「でもよ、それはだめだ。もう決めたんだよ」 「良いのか、学園を出ても生きるのはつらいと前にも……」 「やってみたいことが出来たからな。まぁ責任持つっていうならしばらくはトレちゃんの家にでも転がり込むさ」 「おまえな……。いや、やりたい事次第じゃ俺の責任もあるかもしれないから構わないが……」 「言質取ったぞ。つうわけでだ――」   「引退するぜ、トレちゃん」   「そうか・・・」 引き止めたい、だがリョテイが意志を曲げることはないだろう。そういう人物であると身にしみてわかっている。 「だからよ、良い感じの引退レース決めてくれよ。――最後くらいトレちゃんの為に走ってやるよ」